身体と心の声を聞きながら暮らす

持病はありますが、穏やかに暮らしたいと思います。

死ぬまで病気をしない方法

もはや「病気のデパート」と化した私には今更な話題。
「これまで病気を一つもしたことがない」
と言う人がたまにいる。


黒柳徹子さんが「続 窓際のトットちゃん」を出版したとネットの記事で見た。
内容を一部抜粋して紹介されているから、もしかすると今今の話ではないかもしれないが、記事を読んだ。


一部抜粋の文章をさらに抜粋する。


…………………


(徹子さんが過労で入院した時の話し)


「死ぬまで病気をしない方法はありますか?」


すると先生はこう言った。


「それは珍しい質問だね。これまでそんなことを聞いた人はだれもいなかった。でも、方法が一つだけあります。それは、自分の好きなことだけやって生きていくことです」


トットは、そんなことなら簡単だと思って、頭に浮かぶ楽しいことを次々と口にした。


「明日はお芝居を観て、あさってはおいしいレストラン。その次の日は映画館に行って、その次の日はデパートに行って……」


「だれが遊んでいなさいと言いましたか。自分の好きなことだけをやってくださいと言ったのは、自分から進んでやりたいと思う仕事だけをやってくださいという意味です。そうしていれば、人は病気になりません。いやだな、いやだなと思っていると、いやだながたまって病気になるのです」


…………………


私は本当に看護師になりたかったのか?
違う。大学に行きたかった。


母があることで借金をして、サラ金からお金を借りまくった。
その結果、1年間父に隠すために、電話線を切ったりつけたりする役割をさせられた。
父が夜お酒を飲んで寝ると、母は出かける。
どこへ何をしに行くかはわからないが、金策に走っていることには違いない。
今なら大体想像はつく。なぜ夜なのか。
だが口にしたくないし書きたくない。
胸が締め付けられる。


父にバレないように、布団の中に座布団を二つ折りにして2枚入れ、ボールにカツラを被せて布団をかけておいた。
父がトイレに起きるたびにハラハラしたが、酔っているのでバレなかった。


ロサンゼルスオリンピックのマラソンを父と見ていた。
電報が届いた。
サラ金からの督促状だった。
そこへ外出していた母が帰ってきた。
父が母に問うと、母は泣き崩れ、土下座した。
この時私はホッとしたのだ。
もう電話番も、母の代わりに電話に出て言い訳することもない。
父と喧嘩しない、と。


だが地獄は始まった。
父が名古屋の季節労働に一年行くと言う。
父の働く造船会社が不景気だったので、会社が斡旋していた。
父は
「名古屋に出稼ぎに行こうと思う。俺はお前(母)を責めてしまうし、金も必要だ」
債務整理は父の上司が助言して片付いた、はずだった。
その上司の家に母が呼ばれて行くとき、私も同行させられた。
母はいつも怒鳴られる。
私はとても嫌だったが、母は一人で怒鳴られたくなかったんだろう。


ほどなく父は名古屋へ行った。
だが母は毎夜出歩き、電話もかかってくる。
つまり父に隠していた闇金からも借金していた。
母は私に言った。
「借金取りが見張りにくるから、押入れで懐中電灯で過ごしていなさい」
その日から半年ほど押入れ生活が始まった。
懐中電灯で勉強するにはいささか不便だったが、私は快適だった。
誰も怒鳴らない。喧嘩しない。初めての一人部屋。
夕食は塩結びだけだったから、どんどん痩せた。
昼のお弁当は、100円渡された。
同級生がダイエットダイエットと騒いでいたが、無縁である。
身長164cm、体重43kgまで落ちた。


だが、とうとう借金取りが玄関のドアを叩き出した。
怖くて母に言ったら、翌日から母の知人の家を転々とさせられた。
惨めだった。


ある家で、私にお弁当を作ってくれたおばさんがいた。
唐揚げ、サラダ、フルーツ。
こんな素敵なお弁当は見たことがなかった。
他の子はコレが普通なんだと実感した。


父が帰ってくることになった。
それで父の会社の社宅に引っ越した。
目の前が造船工場の3つ部屋があるアパートの3階だった。
そこで、本当の個室を与えられたが、時は高校3年生の12月。
当時の国立大学の受験は「共通一次試験」といったが、勉強が間に合わない。
当然学費もない。
でもどうしても進学がしたい。
高校の進路指導室で、資料を見まくった。
苫小牧の看護学校が目に留まった。
学費月3千円、寮のお金一万円。
市で運営しているから、学費はあってないようなものなのだ。
だがいくら寮と言えど、日用品や朝食代(昼夜食だけ出る)が必要で、計算すると最低月4万円が必要。
父に相談した。
父は…会社を退職して、退職金でまとまったお金を作ると言ってくれた。
そこからようやく学生らしく勉強を始めた。
倍率14倍。
受からないと思ったが、奇跡が起きた。
試験直前に数学の問題集を読んでいた箇所が、そっくりそのまま出たのである。
コレで一次試験に受かった。
あとは面接。
30人しか受からないのに、二次試験には150名。
だがここでもミラクルが起こる。
私のどこを観察したか知らないが、看護学校に合格した。


看護学校の寮生活は楽しく、安心して勉強できたし、食事ができた。
寮に入って体重が10kg増えた。
実習はきついし、レポートもたくさんあって、睡眠時間が3時間だったが、友達とたくさん話して遊んだ。
ここで本当に友達と遊ぶということを知った。


看護学校3年生の冬、札幌の病院に就職しなければならなかった。
実家が札幌に出て、両親で第二の仕事を始めたからだ。
みんなは東京の名門大学病院に合格して行く。
看護師不足だし、当時看護大学は少ないので、専門学校卒でも東京の病院に受かる。
母に聞くまでもなかった。
運が良いのか悪いのか、市立病院に合格して働き始めた。


大学進学に強い憧れを抱いていた私は、貯金をして密かに勉強していた。
2年後、大学の資料を取り寄せた時、母にバレた。
母は突然私に見合い話を持ってきた。
ずいぶん断った。だが母は私を手放したくない。
2番目に紹介された人と「会うだけなら」という約束で、待ち合わせした。
それが今の夫だ。
学費は結婚費用になった。


24歳で結婚、25歳で出産。
同期は皆んな仕事で研鑽している。
置いていかれると思った。
娘のみかんが1歳2ヶ月で職場復帰した。
周囲にどれほど反対されたかしれないが、譲らなかった。
病院には院内保育園があり、夜勤にも対応してくれる。
初めての夜勤の日、幼いみかんを連れて、20時に保育園に預けた。
当然泣かれた。
昼間なら、お友達がたくさんいるが、夜勤をする母親ナースはほぼいない。
後ろ髪引かれる思いでみかんを預け、更衣室で白衣に着替えた。
ポロポロ涙が出た。
「ここまでして働く私は母親失格なんだ」
だが、当時、田嶋陽子先生がメディアに出だした。
ジェンダー改革に邁進され、過激なことを言う人ではあったが、私は救われた。
そこから仕事と家事育児のワンオペが始まる。


頑張った。昇進した。
だが夫の帰宅が毎夜23時になり、休日も「残務整理」と言って出勤した。
次第に私に金を貸せと要求し出した。
家を買っても貯金はあったし、出張代が出たら返すと言うことで2万3万と渡す。
が、返金がない。
私が働き始めてから、家のローンと光熱費は夫、食費とみかんの習い事、学費は私が出し、あとはお互い貯金ということにした。
そんな生活が10年。


ある日夫が私をパチンコに誘った。
マンションを購入して住んでいたが、隣の奥さんがどうやら子供を虐待していたらしく、2時間も3時間も怒鳴り声と子供の鳴き声が続く。
保健所に通報したが改善しない。
苦しくてリビングにいられない。
それでマンションを売って一戸建てに移り住むことにしたのだ。
近所に住む母からも離れられる。
当時両家の母親から毎日電話があり、辟易していた。
母に至っては合鍵を渡せと言い、勝手に入ってくる。
みかんが熱を出した時見てもらっていたから、鍵を渡さざるおえなかった。
そのマンションが売れて、買主と会う日に2時間ほど時間ができた。
その時誘われたのだ。


よくわからないが、遊びに行ってお金がもらえた。
不思議な感覚だが、ハマった。
一戸建てに移ってから、みかんが寝た後近所のパチンコ屋に行き出した。
すると夫が定時で帰宅するようになった。
休日も出勤しなくなった。
当然気づいた。
「もしかして、今までパチンコに行っていたの?」
夫は白状した。10年経っていた。
借金があった。
この時私は壊れてうつ病を発症した。


動けないから、家庭が回らないし、2馬力で暮らしていたものが、夫の収入で暮らさなければならなくなった。
そこで両家の親と夫が話し合い、私の両親との同居の案が出た。
家にお金を入れて家事をしてくれると言う。
私は気力がなくて発言できない。
手首ばかり切っていた。


ある日首を吊ろうとしているところを夫に見つかり、私の両親との同居を決めたらしい。
私はビールでオーバードーズをしたからフラフラで朦朧としていた。
夫に「水、水が飲みたい」と言った。
むせた。その時夫が声をあげて泣いた。
朦朧としているが、泣き声は聞こえた。


それから2年後、動けるようになり、就職を試みるが、仕事が続かない。
長くて1年半。短いと2日。
職を転々としてはうつ病が悪化した。
心療内科の医師が
「あなたが可哀想で見ていられない。障害年金を申請しましょう」
と言ってくれた。
12〜13年前か?
以後現在まで障害年金をもらっている。


この時通信大学を始めて、単位を稼いだ。
論文を書き、試験に合格し、大卒資格を得た。
罪悪感のあった私は、なんとか去年まで正社員にこだわった。
だが不思議にも病気ばかりする。
毎年のように入院と手術を繰り返す。
全ての始まりは「自己免疫生肝炎」
職場の検診で、肝機能の上昇が見つかり受診して入院してわかった。


既に父を亡くし、日中母との生活は、苦しかった。
でも仕事ができない。
夢だった大学院進学の貯金は、一番長く働けた1年半の仕事で貯めた。
だが父の葬儀代で消えて、ヤケクソになった。
父を亡くした喪失感が強かった。
夫にお金をせびった。
夫も土日は一緒にパチンコに行った。
一つだけ守ったのは、16時までに帰宅すること。
みかんとの時間を保った。


とうとうお金が無くなり、夫が多額の借金をしていたことを知った。
言って欲しかったが責められない。
私も同罪だ。
家を売った。賃貸マンションに引っ越してきた。
母は軽い脳梗塞を発症し、要介護1がついて、デイサービスに通ってもらった。
でも朝遅く出て、夕方すぐに帰ってくる。
それが週2。
狭い室内での母との生活は地獄だった。
居場所はベッド上。
拘置所より狭い。
死刑囚以下の生活を一年半続けたが、爆発した。
とうとう土下座して
「離れて暮らしてください」
と泣きながら母に言った。
叔母の家で一年近くみてもらい、サービス付き高齢者向け住宅に入居してもらった。
それで今年の1月4日に股関節の骨折が見つかり入院。
この時母を抱きかかえて私も腰椎を骨折。
母は二度の手術を経て、現在に至る。
手術は母には負担だった。
もはや母の命は風前の灯だ。


たくさんの病気は、ストレスから引き起こったと思っている。
半年前喘息の重積発作で死にかけ、先月までに3回骨折した。
A型就労を考えたが、デスクワークだけのところはほぼ無い。
事務系はパソコンのExcelで難しい関数を支えなければ、受からない。
以前パソコン教室に通ったが、毎日仕事で使わなければすぐに忘れる。
あとはプログラミング。これは無理。
ちょっとしたパソコン仕事のA型があったので、見学した。
週に1日だけ、中学校のトイレ掃除をして欲しいと言われた。
この時腰椎の椎間板が3つ消滅していたので、肉体労働は無理だが、トイレ掃除ならと引き受け、お試し就職して、掃除中20分で喘息の重積発作を起こした。


今年、アドバイスがあり、精神科訪問看護を受けることにした。
先週自立支援の指示書ができたので、今日訪問看護ステーションに電話しようと思っている。
それでもまだ近所のA型に通うことを諦めきれずにいるが、母の施設の家財の撤収の時、5分と立っていられなかった。
人にも会いたくないし、外にも出たくない。
いよいよ引退しようと思っている。


ここまでの長文で、ようやく最初に戻る。
好きな仕事などもうできない。
残されているのは、iPadを打つ手と、忘れっぽい脳みそだけが使える部位だ。
手と脳で何ができるか?
文章を書くことしかない。


小説はあまり好きじゃなかったが、エッセイや自己啓発本はずいぶん読んできた。
だから母との半生を私小説として懸賞に応募したい。
見える光は遠いが唯一の目標。夢。


Mrs.Green Apple「僕のこと」


僕らは知っている
奇跡は死んでいる
努力も孤独も報われないことがある
だけどね それでもね
今日まで歩いてきた
日々を人は呼ぶ
それがね軌跡だと


起承転結の「結」は、この歌で終幕。

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