身体と心の声を聞きながら暮らす

持病はありますが、穏やかに暮らしたいと思います。

今日の母は元気だった

朝9時から母が2年間暮らした(1年は叔母の家にいた)サービス付き高齢者向け住宅から、母の荷物の全てを撤収した。
業者に引き取ってもらった。
ダンボールに2つほど持ち帰る私物を詰めて、夫と一つずつ持って、エレベーターで1階まで降りた。
私は随分軽い方を持った。
だが1階の廊下でダンボールをおろして、しゃがみ込んだ。腰がギンギンに痛い。
夫が「持たせなきゃよかった、ごめん。車で待っていて」と言ってくれた。
車に座ると吐き気がして戻しそうになった。
私の腰の骨折は全治3ヶ月。
まだ1ヶ月半だ。
無理をすると結果、人に迷惑をかける。


吐き気がおさまってから、母のいる病院に電話した。
昨日の様子だと、到底数日中だと思ったので、個室にでも入ったかと思ったのだ。
ナースに電話が代わり、母の状態を聞いた。


リハビリをすると、とても疲れるらしい。
ベッドサイドで行っているようで、健側の足で立てるように練習しているとのこと。
だから終わったら疲弊して、ぐったりするとのこと。
食事は一応自力摂取を促すが、食べている途中で口の中に食べ物を貯めたまま、眠ってしまう様子。
車椅子に乗せるか個室じゃないと面会できないから確認した。
車椅子に乗せるのがかわいそうだから、大部屋にいるなら行かないでおこうと思った。
リハビリは午前中だけとのこと。
午後からお見舞いに行くことにした。


15時半頃お見舞いに行ったが、一向に出てこない。
トイレ中とのこと。
「え、トイレでおしっこできるの?座ってられるの?」
と夫。私も驚いた。
20分くらい待って、ようやく母が詰所前に来た。
点滴の位置が昨日と違う。漏れて刺し変えたのだろう。
ナースに聞いた。
「トイレで座っていられるんですか?」
「背中を押さえていないと無理です」
「ズボンの上げ下げの時、母は協力しますか?」
「いえ、看護師2人で介助しています」
申し訳なかった。
急性期の病院でそこまでしてくれるとは、時代は変わった。
トイレで排泄を促せば、尿路感染の防止になる。
本人も気持ちが良いだろう。
だが、老人病院に移ったらどうか。
マンパワーが足りない。無理だ。


「腕に血管、ありますか?」
「もう限界ですね」
「27日、ドクターにCV入れてもらうように頼みます」
母は何度も点滴を刺されて痛い思いをするが、ナースも何度も針を刺すのは辛いし、業務の時間を削られる。
少しは食べられているので、中心静脈栄養まで求めないにしろ、現に昨日も今日もブドウ糖の点滴をしている。
お互い辛いし、想像する私も辛い。


早く老人病院に移って欲しい。
リハビリは、それは拘縮予防になるし、少しでも自立できれば、それが高齢者の幸せと何度も習った。
そのための看護をしろと。
だが、私を見ても判別できない。
話しかけると、赤ちゃんの喃語のようなことを言っている。


とにかく今日明日に何か起きるような状態ではなかった。
安心はした。
だが、頭を後ろに倒し、眼が半開きで、うーうーと呻吟するほどリハビリすることは幸せだろうか?
コメディカル全員が計画を立てて母に関わってくれている。
看護計画だから、本人や家族の参加は不要だ。
でも家族の気持ちが置き去りになっていないか?
母は89歳で、実の娘の顔もわからないし会話も成立しない。
右足は股関節が無いので、プラプラだ。
認知症の非力な母に何故自立が必要か?
母は「死にゆく人」である。
それを無理してクタクタに疲れさせるのは、本人は幸福か?
私は現役の看護師では無いからわからない。
医師や看護師の偉い人が議論して出した、高齢者の尊厳が「自立」
教科書に載っているのだろう。


人間として生まれたら、死なない人はいない。
父が77歳で亡くなった時は苦しかったし、後悔した。
3〜4年立ち直れなかった。
母は、平均寿命を超えた。
楽に、眠るように、亡くなって欲しいと願うことは間違いなのだろうか?

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