身体と心の声を聞きながら暮らす

持病はありますが、穏やかに暮らしたいと思います。

都合の良い脳

5月で57歳になるのだが。
55歳を過ぎたあたりから、とても忘れっぽくなった。
感情ごと忘れる。
認知症の初期症状なんじゃないかとも思える。


食卓から立ち上がった途端、何をするか忘れる。
また座る。
「ああ、マヨネーズを取りに行こうとしたんだった」
5分もしないうちに、思い出す。


ここのところはどうか。
1人の時「これをみかんに話そう」と考える。
みかんが帰ってきたら「何かをみかんに話そうとして忘れた」となる。
5分経っても10分経っても思い出せない。
ただ、忘れたことは覚えている。


数日が経つ。
みかんと会話する。
ふっと思い出して話す。
なあんだと思う。
思い出せてよかったと思う。


最近昼に調整しているオランザピン。
一昨日3/4錠、昨日1/2錠飲んだ。躁状態だと思ったから。
ところが昨日のブログを読み返してみると、決して躁状態ではない。
むしろネガティブだ。
ただ、朝は躁だったと思う。


昨日の朝のブログを読み返した。
コメントで「これだけは書くまい」と思っていたことを書いてしまった。
要するに「川勝知事」みたいなことを書いてしまった。
30代の私なら「とんでもないことをした」と落ち込み引きずる。
だが、私は感情ごと忘れている。
文章に書き起こしているから思い出しただけである。


昼のブログはどうか。
前日から喜怒哀楽が激しい日だった。
興奮して前日から怒る、半世紀信じてきたアイデンティティが崩れ落ちる。
古い記憶を思い出し悲しむ。
昼にはうつになっている。
それなのに躁だと思い、オランザピンを1/2錠にした。


このまま減らしたままにすると、理由がなく苦しくなり、ベッドから起き上がれなくなる。
それは覚えている。
だから今日はオランザピンを減らさない。
今日急遽心療内科に受診して、医師に週30時間労働を許可してもらおうとしているのだから、ついでに薬のことも話してくる。
10年前から10mg飲んでいたオランザピンを、去年の夏には2年半かけて1.25mgまで持ってきたこと。
薬の調整を医師に丸投げしなかったこと。
ここははっきりさせたいと思った。


今までの心療内科受診は、ほっとする時間だった。
ところが医師が亡くなり、今の医師になると、私を批判するようになった。
それで薬を出してもらい、障害年金だけ更新してくれれば良いと思うようになった。
「医師と対峙しても、この医師は歳をとっているから考えを変えない」
今の医師に期待することを辞めた。


前回受診時、コメントのアドバイスにより、医師に気持ちを伝えてみることにした。
感情の起伏が激しいこと、先生が怖くて話しにくいことを伝えた。
感情については自分で内服を調整せよと言われた。
困惑した。
「何をどれだけ減らせばいいですか?」
「わかりません」
このやりとりを3回したと記憶している。
この件は覚えている。
結果「トレドミンかルジオミール」という回答を引き出した。


じゃあ、トレドミンかルジオミールを減らしているか?
調整しているのはオランザピンだ。


認知症は、昔の記憶は保たれるが短期記憶が消失する。
若い時から記憶にはまあまあ自信があった。
そのせいで、新人の頃、怒られたことを引きずった。
翌日も翌々日も怒られる。
負の感情が積もる。
辛かったが、退職するという選択肢はなかった。
地方公務員になった。
母がとても喜んでいたから。


思うに、言いたいこと、書きたいことを表現できたら、ネガティブな感情を忘れるようだ。
だが、人を傷つけるかもしれない。
カウンセリングで学んだことは
「あなたは何を言っても良い。受け止めた相手の気持ちを背負わなくて良い。手放す」
だった。
長年「こんなことを言ったら相手が傷つくのではないか」とビクビクしていたように思う。
2年間のカウンセリングで、効果があったと思えるのは「気持ちを手放す」ことだ。


昨日のブログのコメントで叫んでしまった。
傷ついた人がいるかもしれない。
だが、本音だ。
私はもう管理職ではない。
人の気持ちを慮る能力が欠けてきた。


「野菜売ったり牛の世話やモノ作りと違ってみなさんは頭脳・知性の高い方」
川勝知事は、新入社員にこう言った。
彼は早稲田大学の教授で橋本元知事を教えた。
教授時代から性格は悪かったという。
とにかく単位をくれないそうだ。
このセリフに腹を立てた。
「野菜を食べるな、牛乳を飲むな、椅子に座って机でものを書くな」
と思った。
75歳の彼は、おそらく悪いことを言った自覚はない。
知識のみが是であるのだ。


まどろっこしい。
私は昨日のコメントの返信で
「箱を折ったり、割り箸を袋に詰める仕事をしたくない」
書いてしまった。
正直に書くが、どう考えてもキャリアにはなり得ない。
誰もしたくない仕事だろう。
A型もB型も、誰もしたくない仕事を引き受ける。
65歳まで雇ってくれるなら、それで良いと思った。
ようやく15分歩けるようになった。ちょうど良い。
機械化されないのが不思議な仕事だ。


カフェで注文をとる、農作業をする、クリーニングの仕上がったものをたたんで袋に入れる、花屋の下請けをする。
腰に異常が無ければ、全部やりたい。
だが私はデスクワークしかできない。
パソコンか割り箸か。
障害者枠の一般雇用を目指すなら、前者しかない。
差別ではない。差別なのか?
看護師をするには3年間以上専門知識を学んで、国家試験に受からなければならない。
それで初めて仕事をして良いと許可を得られる。
綺麗事ではない。資格なのだ。
世の中そういうふうにできている。
メンタルの調子により、ちょくちょく休んでも支障のない仕事なら後者だろう。


こんなことを書くことで、傷つく人がいるかもしれない。
コンプライアンスが騒がれる今、思っても口にしてはいけないのだろう。
だが真実を直視して欲しい。
仕事にやりがいを求める人には向かない仕事がある。
生活リズムをつけるために通う作業所なら、目的が変わる。
そもそもA型とB型でなぜ差をつける?
やっていることは大差ないのに。


みかんは今肺炎で休んでいる。
昨夜頑張って食事をとっていた。
「栄養をつける」
みかんは今日仕事に行くつもりだ。


みかんが中学2年生の時、文系に進むか理系にするか、選択しなければならなかった。
みかんは中高一貫校だ。
高校2年生までに、中学高校で習う教科を全部終え、高校3年生では目的の大学に合格するための教科ばかりの受験勉強をする。
みかんを中高一貫校に入れたのは、放っておくと勉強しないからだ。
彼女に野心はない。将来を予想できない。
そんな子を親として放っておくか?
私にはできなかった。
「あんた、将来何になりたいの?」
「わからない」
「じゃあ、途中で進路変更しても良いから、薬剤師を目指してみない?理系にしない?」
「うん」


みかんは高校生の時、勉強に苦労した。
とにかく体力がない。
塾の方が安いが、通学を考え割高の家庭教師にした。
それでも家庭教師に勉強を教わっている間、目を瞑り、首をガクンとうなだれては目を覚ますということを繰り返した。
みかねた家庭教師は15分ベッドで寝て良いと許可した。
無理もない。
8時間授業だ。
土曜日も半日学校がある。
「大学に行けば楽しいから」
励ましたが、友達に恵まれなかった。
グループ内の仲の良い子はことごとく留年し、みかんが大嫌いな子と大学5年生から2人でいなければならなくなった。
大学時代を思い出したくないと言う。


薬剤師は…私がなりたかった職業なのだ。
だが何をどうしても進学できない。
学費が高い上、生活費も賄えない。
私はみかんに自分を投影した。
大嫌いな子は国家試験に2度落ちて、薬剤師の道を諦めた。
5人グループで薬剤師になれたのは、みかんだけだ。
嬉しい。とても嬉しい。
自慢の娘だ。
必要とされるから、職場で来て欲しいと言われるのだ。
私は「虎の威を借る狐」なのだろう。


昨日ネガティブだった気持ちを思い出せない。
辛くも苦しくもない。
思いを吐き出したからだ。
だが立ち戻って考える。
パソコンの仕事にやりがいを見出したわけではない。
リモートワークができるから。
これが大きな理由だ。


半分以上、母の考えで構成された私の自我。
56歳にして、自分のしてきたことは間違いだったと受け入れるのは辛い。
今までの努力はなんだったのかと思う。


仕事に自己実現は求めない。
ただ、できる限り長く働きたい。
だからパソコンが学べる作業所に通いたい。
それだけのこと。

×

非ログインユーザーとして返信する