身体と心の声を聞きながら暮らす

持病はありますが、穏やかに暮らしたいと思います。

文章について

ある人の紹介で、群ようこさんの「老いとお金」を読み始めた。
面白い。
昨日一昨日とだるかったので、本を読まなかったが、1時15分にトイレに起きたとき、猫が餌をくれと寄ってきたので餌を与えて水を換え、今日は夕食を作らないのでベッドに潜って本を読み始めた。


私は中途覚醒した1〜2時あたりが、最も頭が冴えて集中力がある。
普段はすぐにブログを書き始めるが、電子書籍にダウンロードした本が「積ん読」状態なので、何か読もうと思った。
途中まで読んだ小説は、映画化されるというから買ったのに、読むのが苦痛だ。
一体何ページまで読んだらワクワクしてくるのかと期待外れになる。
それでその本は病院の待ち時間に、スマホで読むことにした。


群ようこさんは、ウイキペディアで見ると「作家、随筆家」という肩書きである。
やはり私は小説よりエッセイが好きだ。
最近は書くことばかりで、きちんとした本を読むことをしなかった。
でもプロの書くエッセイは面白いね。
多くの人が知っている人のエッセイを最後に読んだのは、東野圭吾「たぶん最後の御挨拶」だと記憶している。
小説は半年に一度ペースで読む。
後は人の書いたブログかネットニュースを読むのがここ最近。


私は、加藤諦三氏と野口悠紀雄氏の書く本が好きで、加藤諦三先生の本は、出版されるごとに買って読んでいた。
ハマったのは30代。もちろんエッセイだが、睡眠時間を削って毎日読んだ。
この方の本は、思想だ。
生き方に苦しさを感じ、もがき苦しんでいた時、藁をもつかむ思いだったから。
途中から加筆修正した本にも手を出したから、同じ内容の本も読んでいる。
感嘆した本は、繰り返し読んだ。
同一人物の著作で、一番多く読んでいる。
多分私の文章の書き方は、無意識に加藤先生を真似ていると思う。


野口悠紀雄氏は「超勉強法」が大ベストセラーになった。
読んだのは20代前半で「子供が大きくなったら読ませよう」と思い、30年取っておいた。
いざ、みかんに薦めようと本を手渡すと「鼻が痒くなって読めない」と言う。
じゃあママが読むよと開いたら、喘息発作が起きた。
30年ものの古本は、アレルギー源になる。
残念だが廃棄した。


「超」と言う言葉は、野口先生が発明した言葉だと思う。
今じゃ当たり前に言葉に「超」をつけ、すっかり定着している。
野口先生の「超整理法」は、私に革命を起こした。
「書類の整理の仕方」を書いた本だ。
論文、自分が書いた研究論文、参考文献のまとめ、研修の時に配られたプリント。
これらをどう整理するか。
それまでファイルにまとめて入れておいたが、大抵迷子になる。
超整理法のやり方だと、A4封筒の先端の折り曲がるところを切り取る。
裏面の右側に、年月日とタイトルを縦に書き、書類を入れて本棚に突っ込む。
新しい書類ができたら同じ様にして最初の封筒の左側に入れる。
それを繰り返すと、読みたい文権を探す時、左から探し、見つけやすい。
で、しまう時に最先端の左に入れる。
これを繰り返すと、よく読む文献は常に左側にあり、無用な文献はいつまでも右側に残る。
私は3年読まない右側の文献は捨てる。服も然り。
教育委員になった時や、調べ物の時、とても役に立った。
グループワークの時「あの時の文献、誰か持っていない?」となると、大抵私だけ持っている。重宝されて、ちょっと嬉しい。


このお二方がツートップで面白い。
あとは自己啓発本、自己実現した偉人の書き残した書物なんかを読んだ。
松下幸之助「道を開く」
大変ありがたいお言葉が書かれている。


小説は、芥川賞作品は、なるべく読むことにしている。
案外難しいことは書かれていないし中編なので苦にならず読める。
数多の記事から芥川賞まで上り詰める本を探すのは、最初から審査員ではない。
「文章のプロ」だけれど、無名の作家さんじゃないだろうか。
まず、その人たちに最後まで読んでもらわないといけないだろう。
一次審査で生き残るには、どうするか?
冒頭の一行が「殺し文句」かどうかが勝負じゃないかと思う。
私が心に残っている殺し文句は、綿矢りさ「蹴りたい背中」
冒頭の一文「さびしさは鳴る」
主人公には群れる友達がいず、ちょっと孤独だ。
授業中にピリピリとプリントをちぎる音が響く。
孤独を表現する名文だと思う。


さて、私の文章で気をつけていること。
「れる、られる」つまり「ら抜き文」
よくテレビでインタビューされた人が、たとえば
「この映画をみれてよかった」
と言ったとする。
テレビでは発言が文字起こしされる。
その時、話した人は「〜みれて」と言っているのに、表記は「〜みられて」に変換されている。
これが気持ち悪い。なんなら腹が立つ。
言う方は普段使いの言葉だし、書く方は編集のプロだから、どちらも悪ではないが、
「なんで話していることと違うことを書くんだ!」
と、いつもイライラする。


だが、ちょっと笑える話がある。
2022年サッカーワールカップで、外国人サッカー選手のインタビューのセリフを通訳が日本語に直訳した。
百聞は一見にしかず。



みかんとゲラゲラ笑った。今見ても笑う。
霜降り明星のせいやのアクションも面白い。
外国人はよく「Oh Crazy」と言うからだが、この通訳に教えた人は誰なんだろう。
日本じゃ放送禁止用語だ。
このように考えると、テレビの編集者は悩ましいのかもしれない。


他に気をつけていること。
「文章の語尾を同じにしない」
「〜した。〜した。〜した。」「◯◯と思った。◯◯と思った。◯◯と思った。」
これはエッセイ教室で習った。
読み手は窒息する。
なのでかなり気をつけて語尾を変えている。


あとは文章云々ではなく、個人的に嫌いな本のタイトル。
「普通の男子高校生の俺が、授業中居眠りして目覚めたら、勇者になっていた件」
私が勝手に作ったが…タイトルが長い、異世界転生、「件」
受け付けない。
中学校時代にラノベは友達に借りて読んだんだけどね。
ジェネレーションギャップか。


次は、先のエッセイ教室とは違う、通信添削型のエッセイコースの教科書に書いてあった。
「いもを洗う様な混雑だ」「穴があったら入りたい」「うれしい悲鳴をあげている」
これを「紋切り型文章」と言うのだが。
ダサいしエッセイ教室では「書くんじゃない」と教わった。


だが、わざと?アナウンサーが説明しているのか疑問なセリフ。
「今年も鏡開きの季節になりました。柔道部では母親たちが作ったお汁粉に、子供たちはしたつづみをうっていました」
親父ギャグ(古い) 1月4日あたりに
「今年も早いもので、残すところあと361日になりました」
これは、面白いのか?
つまり「水戸黄門の印籠」と同じで、テレビを見ている人たちは「待ってました」とワクワクするのだろうか?


ブログを書く時。これは最近気をつけ始めた。
「一つのブログに一つの話題」
「話は変わるが〜」などと言い訳して、蛇足をつけない。


文章についての私の主張はこんなところか。
だが気をつけたから面白い、感動する様な文章が書けるわけでもなく。
基本なのでね。
みんなやっていると思う。

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