身体と心の声を聞きながら暮らす

持病はありますが、穏やかに暮らしたいと思います。

取引

 キューブラー・ロス「死の受容」
看護学校で習った。
「死の受容には否認、怒り、取引、抑うつ、受容の5段階がある」
そうだ。


これを前にカウンセラーさんに言ったら、
「キューブラー・ロスさんは、そういった過程を踏まないで亡くなりました」
と言っていた。


確かに「あなたはステージ4のガンで、余命半年です」と言われたとする。
そこで今どき「そんなバカな」と受け入れない人がいるだろうか?
で、いよいよ死が避けられないとわかった時点で、怒り狂って暴れる人がいるだろうか?
今は全員にガンと告げる時代だ。


強い抑うつ状態になった人は見たことがある。
話す気力がなく、ただぼーっと座っていた。
1ヶ月だけホスピスで働いたことがあるので。


余命が延びるか延びないかは、わからない。
医師は悪目に言うから、医師の宣告以上に生きられたら、家族も本人も「やったー」となる。
抗がん治療をしても、今は痛み止めも吐き気止めも麻薬も使ってもらえる。
私が学生の頃は、患者さんへの告知は消極的だった。
痛み止めは「◯時間経っていないから使えません」と言う時代だった。
あんな残酷なことはないと思う。


「闘病」と言う言葉がある。
最後に意識を失うまで、出来る限りの治療を受け続ける人がいる。
それは最終段階の「受容」に当てはまらないのではないか?
生きる希望を捨てないまま亡くなるのではないか。


私が「死の受容」で信じられるのは2つ。
「抑うつ」と「取引」だ。
抑うつは先に述べた。
そういった事例を見ている。


では「取引」はどうか?
「神様、もし薬が効いて生きられるのなら、一生◯◯しません」
これはあると思う。


叔母と母の、2つの病院に行ってきた。
坐薬を使わなかった。
母の短い杖をついて行ってきた。
骨折初期に大活躍した、母の杖。
腰は痛まず、広い院内を歩いてきた。
疲労もない。
練習が少しは効果があるのか?


母のすぐ下の妹である叔母(独身で母と仲が悪い)は、意識がなくなるまで「憎い…悔しい…」と言っていた。
これは「怒り」じゃないのか?
怨念を残したまま死んでしまった。
死ぬことについては話しをしていない。


ダラダラと書いた。
何を言いたいかと言うと、今私は「取引」をしている。
「もしA型事業所に受かったら、一生宝くじを買いません」
宗教は否定しているが、「全能の神」にお願いしてしまう。


…………………


みかんの血液データを見せてもらった。
CRPという炎症を示す値がある。
正常値は0.5以下。10以上で入院治療が指標。
みかんの値は「12.5」
「あんた、抗生物質もらった?」
部屋の外から聞いたら
「2種類飲んでいるよ」
と。
「頼むから、せめて月火だけでも休んで」
「わかった」
さすがのみかんも観念している。
昼はインスタント味噌汁しか飲んでいない。


夫が「今夜は焼肉だよ」と言う。
慌てて冷蔵庫を開けた。
卵豆腐とサンドイッチ、ポカリイオン水がある。


とにかく「安静」と「滋養」だ。

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