母の葬儀終了
棺に眠る母を見て、何も思わなかった。
創価学会の友人葬。
私は25歳で脱会した(つもり)けれど、まあ最後の親孝行と思って、30年ぶりに勤行と題目をあげた。
親類は「お母さん天国へ行けるよ」と言った。
心は何も動かない。
花を手向ける時
「寄り道せず、じいちゃんのところに行くんだよ」
と声をかけた。
涙は出ない。
泣かなかったのは、私たち家族3人だけだった。
「最後に話しておきたかった。それだけが悔やまれる」
そう言う親戚もいた。
へぇ、いつ、どこで?と思った。
生きていたら、母のところへは来ないくせに。
なんだかんだ、施設と病院に通ったのは、私と夫だけだ。
しらじらしいな、と思った。
それでも、そう言った亡くなった叔父の妻つまり叔母は、香典を3万円包んでくれた。
ここまで思ってくれて、と感謝の気持ちはした。
地獄の沙汰も金次第なのか。
娘は生きているうちに、顔を見せた。
会わせておいて、よかった。
今回の母の葬儀には、花と供物は不要と親類に拡散してある。
ふたを開けてみたら、一日葬に文句を言った人はいなかった。
通夜が無い分、皆楽なはずだ。
私は一日葬が限界だった。
腰が痛い。体力がない。
火葬場で、最後に炉に入る時も、何も感じなかった。
どうして心が止まっているのか、わからない。
私は涙もろい。
なのに泣けない。
さよならも言わない。
他のことを考えたわけでもない。
火葬が終わるまで、部屋を取ったので、そこで待ってもらい、お弁当を食べてもらった。
お弁当の豪華さに、皆びっくりしていた。
今回葬儀代が倍になったのは、全て食べ物にお金をかけたからだ。
火葬が終わり、斎場でお土産を渡して解散した。
私は火葬場でお弁当を、ほぼ食べられなかった。
帰宅後お土産を開けた。
ここにもお金をかけた。
二段重の料理にした。
タラバガニ、エビ、ホタテが入っていた。
皆んな私があげる葬儀など、大したことがないと思っているはずだ。
実際通夜をしていない。
だから料理を豪勢にしたのだ。
母は3年ぶりに、自宅の元いた自分の部屋に戻った。
今、そこに眠っている。
終わった。
30年ぶりに勤行をあげたのだ。
私なりに精一杯やった。
無い袖を振り絞った。
死に目にあえなかったのが悔やまれる。
それだけ。
親不孝はしていないと思うよ。
綺麗に湯灌もしたし。
受けた虐待は、思い出さなかった。
誰も私の気持ちなど、わかろうはずもない。
棺に眠る母は穏やかな顔をしていた。
それで私は充分なのだ。
…………………
ブログにせよ、本にせよ、新聞の記事にせよ
母親を亡くした子供に期待する読者は
「最愛の母親を亡くし、悲嘆に暮れる子供」
幼児の頃一日一食しか食事させず、幼稚園にも保育園にも行かせない、父と喧嘩した翌日、遠足だろうが学校を休ませて父の愚痴を私に言う。
エキサイトすると
「あんたはお父さんとそっくりだ!お母さんは出て行く。あんたの学校に行っている間に出て行く!」
そう怒鳴りつける。
しつけと称してストーブに手を押し付ける。
腕の裏側に熱湯をかける。
借金取りから逃げている時、私は半年押し入れ生活をした。
夕食は白米と塩。
お弁当は100円。
友達と遊ぶの禁止、部活禁止。
お見合いの強要。
結婚式のドレスをお色直し2回、着物にさせる。
私の家に合鍵で入って、箪笥の中のお金を持って行く。
みかんの机やトランクを調べて、お金を持っていき、パチンコをする。
みかんが親にひた隠しにしていた「コスプレ」
その衣装を見つけ出し、私に「みかんは変な人に服を買わされている」と言う。
嘘つきで過干渉。
それが私の母だ。
虐待を受けたことがない人に、気持ちはわからない。
「お母さんを許してあげなよ。もう済んだことだから」
その済んだことのせいで、私は「複雑性PTSD」になったんですけど。
許すかどうかは、私が決めること。
親戚のしらじらしい涙。
「にゃーちゃんがお題目をあげたから、お母さんは天国へ行けるよ」
別にそんなこと、どうでもいい。
ただ、最後の手向けをしたまで。
綺麗な祭壇にして、桜の下で微笑む母の遺影を作り、葬儀に参列してくれた人にはご馳走を振舞った。
何か文句があるなら聞こう。
コメント欄に書いて欲しい。
「なんて親不孝な娘だ!」
罵ればいい。